バシー海峡 2011/3/9

 2010年6月、「縄文」と「パクール」はルソン島で航海を終えた。2年間でおよそ3000km走り、沖縄まで残り1000kmほどだ。

 9月から次の年の4月までは北寄りの風が吹き、風に向かって走れない私たちのカヌーは進めない。7~8月はルソン島より北は風が強くなり、大型台風も頻発する。5~6月の短い期間だけが航行チャンスなのだ。

 その間に漂海民バジャウのところに行ったり、次の難関バシー海峡に行ったり、国内で情報収集をしていた。バシー海峡に行ったのはルソン島北部で航海を終え、カヌーをカブガオの村に陸上げして、竹と椰子の葉で建てた小屋に格納してからの6月下旬から7月上旬にかけてだ。

 ルソン島の北部は400kmの海峡を挟んで台湾と向き合っている。フィリピン側にはいくつもの島が点々とある。バシー海峡は一般的にはルソン島と台湾の間の海峡を言うが、正確にはこの島々の北端バタネス諸島と台湾の間のことを言う。フィリピン側にはその他にバブヤン海峡、バリタン海峡が横たわっている。

 フィリピンの一番北のバタネス諸島に船で行こうとした。しかしルソン島からは定期船は走っていない。断崖に囲まれた島が多く、着岸が困難だからだ。唯一定期便があるのは軽飛行機で、首都マニラから飛んでいる。私は武蔵美の卒業生たち、前田次郎、佐藤洋平、水本博之、百野健介と共に、マニラから唯一飛行場のあるバタネス諸島の中心バタン島のバスコに飛んだ。この辺の海の様子と台風を見たかったからだ。

 この辺は台風銀座と呼ばれている。台風がよく通る。しかし治安はフィリピンで一番よいと聞いた。私が興味を持ったのはフィリピンとは民族も文化も違うということだ。

 県知事の甥だというジョン・ガトさんが迎えに来てくれ、彼の隣の家に食事付きの部屋を貸してくれた。

 7月になるのに、台風は3月に一つ発生したきりだ。台風銀座で人々はどのように生き延びてきたのか。この目で見てみたいと思ってやってきた。

 ちゃんとした港があるのは飛行場のあるバタン島だけだった。この島も海岸線は切り立っている。

 ジョン・ガトは小柄な坊ちゃん刈りで、日本に連れてきてもすんなりとけ込めるほど日本人に似ている。かつてここまで倭寇が進出していたので、その血が混じっていると思わせる。考えてみると沖縄の八重山諸島からは直線で500kmで、九州に行くより近い。彼にバタネス諸島の概略を聞いた。

 バタネス諸島には島が10ある。人口は1万5千人だが、その中で、人が住んでいるのは、バタン、イトバヤット、サブタンの3島だけ。ここはバタネス州というフィリピン最北端、面積最小、最過疎の州を造っている。州都がバスコだ。

 バタン島は人口5千人、伊豆諸島の三宅島と同じ大きさで、同じようにイラヤ山という火山(1009m)がそびえている。独立峰なので、常に頂上付近は雲で覆われている。朝、太陽はこの山の背後から遅い時間に上がる。

 フィリピンも他の東南アジア諸国と同じように多民族国家だ。バタネス諸島もルソン島以南とは違うイバタン語を話す。台湾の蘭嶼島に住むヤミとイバタンは同じ言語だという。ここの人たちはフィリピンの文化圏ではなく、台湾の文化圏に属するようだ。今年の5月にはバスコを出た後、フィリピン最北端のヤミ島を経由して蘭嶼島に向かう。どのような交流が行われたのか、いにしえに思いを馳せながら蘭嶼島に向かいたい。どのような人々に出会うのか、楽しみだ。

 戦前フィリピンは米国の植民地だったが、19世紀まではスペインの植民地だった。17世紀の後半に遠征隊を派遣し、18世紀後半にはバタン島にバスコを送り込み統治を始めた。そこをバスコと命名した。

 同行した若者たちはさんさんと注ぐ太陽光、石壁の家々、清潔で花が咲き誇る町並みを見て、 「沖縄みたいですね」と言ったが、私は「スペイン風だなあ」と思い、眺めていた。倭寇の他にもイギリス人の海賊もやって来た。しかし海賊と統治では影響力がまるで違う。厚い石積みの家はスペインの影響でそれまでは壁も屋根もコゴン草で作られていた。イトバヤット島でその例を見た。屋根は何層もコゴン草を重ねて葺いている。飛ばされないようにロープで縛り付けている。庭に穴のあいた石が埋め込まれている。屋根を押さえたロープを縛り付けるためだ。大きな台風が来たら一発で吹き飛んでしまいそうだ。

 しかし、これも台風に対する一つの解決策なのだ。吹き飛ばされても、簡単に作れるからだ。

 ナイル川の下流、エジプト領内では大きなダムができたため洪水がなくなった。しかしダムができる前は、洪水があるおかげで上流から肥沃な土壌を含んだ水が流れてきた。今は洪水がなくなった代わりに化学肥料を使わなければならなくなった。

 ダムより上流、スーダン領ではまだ洪水がある。それなのに人々は中州に住んでいた。それも土壁の粗末な家だ。彼らは「洪水があるおかげで上流からシルトという生産力のある肥沃な土壌が運ばれてくるので、洪水がないと困る」と言う。私が行ったときは洪水が起こった直後だったが、予想範囲内と言いたげに家を作り直していた。簡単に壊れるが、簡単に作り直せるのだ。バタネス諸島でも同じことで、コゴン草の家は壊れやすいが簡単に作り直せる。

 スーダン・ナイルで人々が脅威でもある洪水を待ち望んでいるように、バタネスでも台風は脅威だがなくてはならないものだ。年3000mm以上の雨量があるおかげで作物は育ち、家畜の餌である草が成長する。孤島では水不足は深刻だ。台風はそのかなりの部分を運んできてくれる女神でもある。

 それなのにこの年の台風は3月に発生したきりだ。それもバタネス諸島には近寄りもせず消えた。それ以来台風は来ないだけでなく一つも発生していない。2号が発生したのは7月中旬だった。

 ジョン・ガトが「日本軍の地下司令部があった洞窟を案内するよ」と言って、小高い丘に連れていってくれた。ただの防空壕だろうと思ってついて行ったが、入り口も中もコンクリートで固められたしっかりした地下司令部だった。激しい空襲の中、ここから周辺に展開する日本軍に指令を出していたのだろうか。

 この島には日本軍の基地の他に、所々に、かつて島の人々が作った要塞(イジャン)があった。異人が来たとき徹底抗戦する攘夷派もいたのだ。インカと同じように、スペイン人に石つぶての嵐で抗戦した健闘の跡だ。しかし銃をもつ敵にかなうはずはない。その後米国、日本、さらに米国に支配されるが第2次大戦後にやっと自分たちの土地になった。