1月にフィリピンに行ってきた。昨年10月にルソン島北部を風速90メートルを越える台風が直撃した。われわれのカヌー「縄文」と「パクール」を保管している場所だ。電話では、カヌーもそれらを保管している小屋も問題ないということだった。しっかりした小屋を作ったのが幸いしたようだ。ほっとしたが、それから3カ月経っている。村人に管理を委託していたが、カヌーの内部の細かいところまではチェックしていないだろう。一番心配していたのはもともと腐っていて埋め木をした周囲がどうなっているかだ。昨年は埋め木をした周囲が指がスーと入ってしまうほどすかすかになっていた。木釘、板、ダマル(松脂のような天然樹脂)を使って補修した。
ニッパヤシで葺いた屋根と竹で作った壁でできている保管小屋は強固で、巨大台風なんてここを通ったのかと言いたげに建っていた。
小屋の中に入ってみた。既に乾期に入っていて、乾いている。最初に左前方と左後方の腐った部分を埋め木した周囲をチェックした。昨年のように腐っているか心配だったが、腐食は進行していなかった。
ほっとして他の部分をチェックした。大きな修理を必要とする部分は見つからなかった。唯一竹だけが心配だった。アウトリガーのフロート部分は元々割れていて、ダマルを詰め込んでいたのだが、ひび割れが拡大していた。
この周囲では太い竹は見つからないので、ダマルを使って目止めをし、今まで時々そうしてきたように、各々の節ごと2カ所に穴をあけて、だましだまし同じ竹を使っていくしかない。しかし、12~13cm径の竹ならいくらでもある。いざとなったらフィリピンの多くのアウトリガーのように3本の竹を束ねてフロートに使ってもいい。帆の支えとなっているブームの竹も虫が付いて小さな穴がたくさんあいている。虫が食うと折れやすくなるが、許容範囲の虫食いだ。ロープ、帆などは保管した昨年の6月と状態は変わらない。この状態ならば、航海を始める3~4週間前にここに来て、修理、補修すればいいと思った。
カヌーを保管している村は地形を生かして、今まで見たことのない漁をしていた。竹の筏を利用して、遠浅の海で魚、イカ、タコなどを採っているのだ。竹の簡単な筏を使って移動や運搬に使っているのを川では見たことがあるが、海では初めてだ。ほとんど荒れることのない遠浅の珊瑚礁だからできるのだ。
村長に頼んで、筏を借りて海に漕ぎだした。手作りのダブルパドルで、漁師たちのいる場所に移動した。浜に近いところは極端に浅く、20cmもあれば浮く筏もここでは座礁してしまう。そのために水路が掘ってある。ほとんど一人乗りだが、父子で乗っている筏もある。潜って銛で魚やイカを刺す者、差し網を張る者、罠を仕掛ける者と様々だ。
ちっともとれない者もいるし、大漁の者もいる。とれた獲物は自分では売らない。浜に仲買人が待ちかまえている。自分の家族が食べるものを除いて仲買人に売ってしまう。漁師はすべて男、仲買人はすべて女だ。女たちはサンジュアンの町に三輪バイクに乗っていく。マーケットには決まった場所を持っていて、町の人間に売る。値を聞かれると、答える。値切られるが、やや値を下げて踏ん張ろうとする。真剣な交渉だが、笑いが絶えない。交渉を楽しんでいるようでもある。
ここの村は背後に畑を持っている。タバコが目を引くが、その他トウモロコシ、ナス、トマト、タマネギなどを栽培している。半農半漁で皆が仕事を持っている。決して物質的に豊かとはいえないが、貧しさは感じない。ゆったりとして、ガツガツしていないので、居心地がいい。
今回は若いクルーの佐藤洋平、ビデオ撮影を担当している水本博之が同行していた。3人で、マニラに帰る前日、ため息をついていた。「あっと言う間に一週間経ってしまったね」「その日のことか、よくて明日のことを考えていればいい暮らしっていいよね」「また日本に帰るとスケジュールに追われる日々が続くんだね」と日本でのせわしない生活に戻らなければいけないんだというため息だ。ここの人間のゆったりとした暮らしをうらやましいと思いながらも、「ここに骨を埋めよう」とまでは思い切れない自分たちであることも自覚している。毎日のように私たちの居候部屋に子供たちが来て騒いでいく。奈良の大仏様のような顔をした年頃の娘が日本語を教えてくれと通ってくる。
外を歩いていても村人たちと目が合うと、皆にこっとしてくれる。太平洋戦争中はここに日本兵が上陸してゲリラ戦を展開したのだ。そんなことは嘘の様に親日的な村だった。