インドネシア報告(8) 丸木舟の大木探し 2008/12/3

[ ムハジール再訪 ]

 マムジユの北およそ130kmのところにある小さな町にやって来た。海岸に近いが海には面していない。マカッサルとパルーを結ぶ国道沿いにあり、海岸線から3kmほど離れている。米作りか、カカオ、みかんなどの果樹、ココナツ椰子、アブラ椰子が生活源の本当に田舎の村だ。後方には深い森を抱いた山がある。セレウェシ南部には舟を作るための木がなくなり、ここまで来なければならないのだ。今回の目的は二つのカヌーの基礎を作るためだ。当初はパクールを造るための板作りをするために来る予定だった。しかし、ラマダン中に様々なことがあって、パクールというマンダール人の伝統舟の他にもう一艇のカヌーを造ることになった。パクールは鋸とドリルを使わなければ出来ないことが分かったからだ。8月に舟底部を造ったが、高さは40cm、あと60~80cmの板を付け足さなければならない。通常2枚の板を付け足す。この2枚の板を付け足すにはどうしても鋸とドリルが必要だという。鉈とノミ、斧、ちょうなだけで、時間をたっぷりかけて造れないことはないが、繋いだ板の隙間から水が入って来るだろうという。安全性の見地から見ると危険だと、多くの舟大工に言われた。そして鋸とドリルなしでカヌーを作ることは出来ないと言われた。鋸やドリルは用意していない。これらの工具を使うと「自然から素材をとってきて、自分で作る」というコンセプトから外れてしまう。そこで解決策を探した。

 板を接いでいくために鋸やドリルが必要となる。ならば板を接がないようにすればいい。大きな丸太舟を造ればいい。とはいっても大きな木は簡単に見つかるものではない。舟底から1mの高さがあれば安全性が高くなる。そのためには直径120~130cmの大木が必要だ。国立公園に行けば見つかるかもしれない。しかし森林とそこに住む動物たちを守るために設けられた国立公園だ。むやみには切れない。森林保護のNGOからの批判も免れない。唯一の可能性をこのマムジュの北の森に求めた。

 リドゥワンの親戚である80歳代の舟大工セウワさんに、「カヌー造りの材としてはティプールが最高だ。カヌーを作るならばティプールを探してきなさい」と言われた。そのために、ティプールにこだわりすぎた。他の舟大工や材木商に聞くと、他にもいい舟材は多いという。ウル、カンデュロワン、マランティは軽くて丈夫な木だという。しかしそれらの木はティプールのように平坦な所にあるわけではない。山岳部にある。したがって大木があったとしても、場所によっては運び出せない。

 前回舟底造りのために手伝ってくれた材木商ハサヌディンさんに相談することにした。その前にハサヌディンさんから気がかりなことを聞いた。「ティプールで板作りをすると、乾燥に3カ月かかるよ」と言われたのだ。10月に板作りをすると来年の1月まで舟造りを開始できないということになる。しかし他の素材、カンデュロワンやウル、マランティといった木ならば1カ月の乾燥で済むという。できたら年内にカヌーを完成させて、造ったカヌーで試運転、トレーニングをしたいと思っていたので、ティプール以外の木を探すことにした。

 ハサヌディンさんはマランティ、ウル、カンデュロワンの3種共に彼の裏山の3000haの中にあるという。ハサヌディンさんは快く、一緒に探してくれることになった。実は私たちは大変な時にハサヌディンさんにお願いに来たのだ。ラマダンがあと3日で終わる。そうするとレバランと言ってイスラム教徒にとって私たちの正月に当たるものを迎える。つまり年末の最後の3日間、それも断食をしている人に向かって、山に入って大木を探してくれと頼んでいるのだ。それにもかかわらず、ハサヌディンさんは快く同行、案内してくれることになった。

 バイクでおよそ20分間、幹線道路から外れて山道を入っていった。そこに最後の家がある。そこから歩き始める。最初は勾配も少なく、広い道だが、次第に狭くなる。途中からは勾配も強くなり、人が歩いた跡もなくなる。1時間ほど歩いてから森の中に入った。わずかにけもの道らしきものがあるが、暫らくの間誰も通っていないようだ。急勾配の原生林の中をぐんぐん登って行った。一旦渓谷に下りて、沢沿いに登っていき、再び森の中に入って登って行った。やっと見つけたマランティと言う木は既に切り倒されていた。がっかりしていると、ハサヌディンさんは他に2本太い木があるという。

 翌日はやはり急勾配の原生林の中の道を登って、二つの大木にたどり着いた。最初に出会った大木はウルと言う木だ。場所は林道に近い。木の太さも直径100cmより太そうだ。しかし上のほうは細くなっている。しかもおそらくイチジク科の植物だろう、蔓性の植物がまとわりついていて正確な太さは測れない。この蔓性の植物はアマゾンにもあり「絞め殺しイチジク」と言われている。イチジクの種が大木の幹や枝に着生し、上下に芽と枝を伸ばしていく。下に伸びていった枝は着地して根を張る。それらは大木を取り囲むように成長していく。そしてイチジクがすっかり大木を覆ってしまい、最後に大木を絞め殺して腐食させてしまうのだ。一応候補として考えておくことにして、さらに奥に踏み込んだ。原生林の中の道をひと山越えて谷に下り、再び登った所に大木があった。やはりウルだ。確かに太い。ラティックが巻尺で計測すると、3mの高さで周囲3.9mあった。と言うことは直径が120cmはある。ところが下は太いが5~6mの所で急に細くなっている。しかもここは、荒削りの作業をするのが困難な斜面にあり、道があるところまで運び出すのも容易ではない。帰りにカンデュアロンの木もみたが直径1mもない。

 やはり決定打はなかった。最初のウルの木は可能性があるが、1mの高さの丸木舟を作るのは難しそうだ。高さ80cmの高さの舟底なら造れる。しかしそれでは30cmの板を継ぎ足さなくてはならない。また鋸とドリル使用の問題が出てくる。

 ここに来る前に、ルアオールというマジェネの北の最後までパクールを造って、利用していた村に行った。ラマダン中にもかかわらず午後になっても、炎天下構造船造りに励む舟大工グループがあった。その棟梁アブドラさん(52)に話を聞いた。パクールを造ったこともあるし、造れる。しかし鋸とドリルがなければ造れない、とはっきりと言われた。静かで、誠実そうな人物だ。この人が「ウン」と言えば、鋸やドリルを使わないでカヌー造りをできるのではないかと思ったが、頑なに「鋸とドリルなしではパクールはできない」と言われた。

 ラマダン明けのレバラン中は誰も仕事はしない。そこで私たちはトラジャ人たちの所に行くことにしていた。トラジャ人の多くはクリスチャンでラマダンもレバランも関係ない。しかしムスリムに気を使ってラマダン中は彼らの盛大な葬式をしない。しかしラマダン明けには大きな葬式が続くと聞いていたからだ。その前にもう一度アブドラさんに会いたいと思ってルアオールを訪問した。しかしアブドラさんは魚を取りに出かけていて、会えなかった。その代りに近くの村で、自分でサンデックを造り、レースにも出ている舟大工に出会った。彼は「鋸なしでもパクールを作れるよ」と言う。光明が見えた気がしたが、リドゥワンに、「とても長い時間をかけて、たっぷりと謝礼をはずめばできるということだよ」と言われた。たっぷり時間をかけるのはいいが、外国人のお金目当てに「ウン」と言われても信頼できそうになかったので、その大工に頼むのはやめることにした。信頼できる舟大工と一緒に自分たちの航海する舟を造りたい。

[ 舟大工、カマ・ダルマ ]

 イスラムの正月に当たるレバランが終わったら、板作りを始めるとカンブノン島のハプディンさんと約束していた。その前にもう一度アブドラさんに会っておきたかった。アブドラさんは「待っていたんだよ」と言って迎えてくれた。舟底部を見たいと言って私たちの宿舎のあるランベまで見に来て「いい出来だ」と言い、パクール造りの協力をしてくれるだけでなく、「私もムハジールまで行きたい」という。そして「造ったパクールで日本まで一緒に行きたい」と真顔で言い始めた。

 カマ・ダルマさんは1956年12月31日生まれとIDカードには書いてある。ところが青年団の身分証明書には1963年生まれと書いてある。インドネシア人の年齢は身分証明書を持っている人でも正確ではない。17歳から海で働いている、根っからの海の男だ。中国人所有のおよそ500トンの木材運搬船のキャプテンをしていたこともある。父親はマジェネの東、タンガタンガの出身でルアオール出身の妻と結婚してルアオールに住むようになった。

 父親が舟大工だったので、パクールを造っていた。父親の手伝いをして、長さ8.5m、幅1m、高さ1.3mのパクールを造り、20年間、そのパクールで魚をとっていた。ルアオールを出ると、およそ50日間は戻らない。ハギの仲間をカツオを餌にして釣った。カツオは開いて干し魚に出来ない。パクールには大量の塩が積んであり、開いて塩を振って干した。パクールには1.6トンの塩と400リットルの水が積まれていた。それだけで2トンになる。パクールの積載量はかなり大きい。塩は干し魚を造るためだ。1トンほど集まると、東ジャワ島やバリ島に寄って売った。およそ25日で1トンとれた。西風が強く荒れることの多い12~4月は休んだ。

 朝と昼はタピオカのせんべいをお湯で浸し、ココナッツの果肉を削って混ぜて食べた。椰子砂糖を使うこともあった。夜はご飯を炊き、魚をおかずにして食べた。航海をして帰って来ると、皆たくましく肥っていた。頭、内臓も含めて、丸ごと魚を食べるので身体にいいのだと考えている。

 夜の航海には、大きい船にぶつけられないように、灯りが必須だ。かつてはバッテリーを使わず、ペトロ・マックスを使っていた。20年乗ったパクールを隣人に売って、より大きな動力船を造り、150馬力の日本製のエンジンを積んだ。パクールの時は操船も魚を釣る時も機械がしてくれる。体力の衰えを感じていたカマ・ダルマさんにとっては、動力船の方が楽だ。またスピードも違う。ジャワ島やバリ島の船は機動力のあるエンジンをつけ、魚の取り方も近代的、暴力的だ。帆船で対抗しようとしてもかなわない。都合のいい時に、都合のいい方向に向かうことのできる動力船は瞬く間にインドネシア中に広まった。

 サンデックは「尖った」と言う意味で、スピードに特化したカヌーだ。それに対して安定感、積載量共にパクールが優れている。2.5m以上の波でも、パクールは耐えられるという。鶴見良行氏はサンデックを華麗に森を舞う蝶々の様だと表現したらしいが、パクールは何に例えるだろうか。さしずめ羽根をバタバタしないコンドルだろうか。