インドネシア報告(4) 舟を造り始める 2008/9/10

 私たちがカヌーで日本に一緒に航海してくるマンダール人のアイデンティティーにもなっているサンデックという帆走カヌー。一時廃れたが、ドイツ人研究者や今回の航海のインドネシア人クルーのリーダーであるリドゥワンの努力によってレース用カヌーとして復活した。船体が細く、マストが非常に高いダブル・アウトリガー・カヌーだ。太い竹で作ったアウトリガー(フロート)の存在によって安定感が増している。毎年8月中・下旬に西スラウェシ州をあげてのサンデックレースが行われる。写真はその時のレース風景だ。

 私たちがカヌーで日本に一緒に航海してくるマンダール人のアイデンティティーにもなっているサンデックという帆走カヌー。一時廃れたが、ドイツ人研究者や今回の航海のインドネシア人クルーのリーダーであるリドゥワンの努力によってレース用カヌーとして復活した。船体が細く、マストが非常に高いダブル・アウトリガー・カヌーだ。太い竹で作ったアウトリガー(フロート)の存在によって安定感が増している。毎年8月中・下旬に西スラウェシ州をあげてのサンデックレースが行われる。写真はその時のレース風景だ。

 午前中は伐採で終わり、午後から上面を削り始めた。斧でほとんど等間隔におよそ20cm幅の割を入れた。その後、割を入れなかった部分を斧で削っていく。表面近く10数センチが白く渇いているが、中心に行くにしたがってやや黄色く湿り気を帯びている。瞬く間に上面を平らにしてしまった。次に中心部を刳りぬいて行く。最初は斧で大まかに刳りぬくが、奥に行くと、お好み焼きを掬いあげるコテに似たチョウナを使う。コテとは違って先端が鋭利な刃物になっている。これも河内さんと大川さんに仕上げてもらったものだ。舟大工たちは一つ一つの道具に使い慣れたものがある。刃の湾曲、反り具合、柄との角度などはこのセレウェシ内でも地域によって違う。日本から持って来たものに関しては、その切れ味に感心していた。

 毎日のように午後になると、雨が降っていた。朝から一日中降っていることもある。雨期の前兆と言うより、既に雨期に入ったような降り方だ。「雨が降った時は作業も停止」と言っていたが、土砂降りの雨が降っても手を休めない。私たちも雨の中作業を続けた。日が照ると、舟大工たちは上半身裸になることが多い。彼らの上半身は鍛えられている。人工的に造られたものではなく、長い時間をかけて作業によって鍛えられたものだ。肥満、メタボはもちろんいない。特に腹の周囲が引き締まっている。胸、肩から腕にかけて、そして背筋も作業をするごとに収縮し、弛緩する。その動きがきれいだ。面構えもいい。表情があり、のっぺりとしていない。作業している時の顔は真剣だが、いつもは笑顔が絶えない。

 内部が刳りぬかれ、側面と底面が削られていくと、今すぐにでも乗れるような舟の形になって来た。左右がほとんど対称だが、造っている間、図面もミニチュアも何もない。すべて棟梁の頭の中に設計図がある。伐採する木の形、固さ、柔軟性などが一本一本違う。木を伐採しながら、倒れた木を見ながら、削りながら、舟のイメージを作り上げ、それを具現化していく。まるで木の中にもともとあったカヌーを掘りだしているような印象も受ける。しかしけっしてカヌーになるために生まれてきたものではなく、人間の意志によって、意図的に一本の大木を流線形の流れるような形にしたものだ。

 作業中は電気なし、ガスなし、水道なしのイルウァンの家にホームスティした。イルウァンは29歳で既に4人の子供がいる。今回は棟梁の指示のもとでカヌー造りの現場作業をしている。数年前に30mの木から落下し、その後25mの崖を落下して骨折をした。しかし病院にも行かず、そのまま放置していた。歩くのは不自由な重度の障害者のように見えるが、鼻っ柱が強く、障害があることを意識させずに作業をする。彼も上半身は発達している。ローソク一本の灯りで家族そろって食事をする姿を見ても物質的貧しさは感じるが不幸と言うイメージはない。私たちの食事の賄いをしてくれた奥さんの姉がよく遊びに来た。ちょっとしたことで、2人で身体を揺すって、1km先でも聞こえそうな大声で、豪快に笑い転げる。初めて付き合う私たち外国人の、自分たちとは少し違うふるまいや動作を見て笑うのは、自分たちのふるまいを普遍的だと思ってしまうどの文化の人間とも共通のものだ。

  雨が強く降りしきる中、舟底造りが終わった。木の伐採を含めて4日間かかった。リドゥワンはチェンソーを使えば1週間でできるが、斧とチョウナだけ使って造ったら、3週間かかると言っていた。そのため、あまりにも早くできたので、狐につままれたような気分だ。通常は2人の舟大工で作るのだが、常時3~4人の助っ人が手伝ってくれたし、私たち日本人も少しは戦力になっていた。戦力になっていないとしても、依頼主自ら舟造りを手伝うということはほとんどないので、それに意気を感じて、乗ってくれたようだ。リドゥワンもこんなに早くできるとは想像していなかったようだ。

 明日は舟を一旦川まで引っ張っていき、川に沿って海に運ぶ。村人20人ほどが手伝ってくれることになっている。横倒しになった大木が見る見るうちに舟の形を整えていく。同じティプールの木でも太さ、形、固さなど、性格が一本一本違う。その性格に合わせて棟梁は舟の形をイメージして、作り上げていく。織物や染織、家作りでも設計図なしで作る伝統社会は多い。マンダールの棟梁も木の性格を読みとって自分の頭の中に設計図をイメージする。図面は一切書かない。木にラインを入れるのは一回だけだ。船首と船尾を細くするので、そのラインだけはヤシの葉の葉軸を当てて、炭で線を引いた。

 上面がほとんど削り終わると、真ん中に切り残した部分に穴を開け、3mほどの丸太を刺して横倒しにした。側壁は斧をカンナ代りにして、削っていく。一方が終わると反対側を削る。側壁を仕上げていく時は目を見張った。斧で削っていくのだが、かんなで削ったように平旦に削っていく。削り跡はまるで魚のうろこを押しあてたような美しい文様ができる。船底を斧で荒く削った後、チョウナで削っていく時も、表面はすべすべになる。最後に前部と後部の必要のない部分を切断した。

 帆についてリドゥワンと話し合った。今回の航海では三角の帆と四角の帆が考えられる。  三角帆はヨーロッパの影響を受けて使うようになったものだ。その長所は向かい風に向かって進んでいくことができることだ。そのためマンダールの現在のカヌー、サンデックは三角帆を使っている。四角帆は昔から使っている帆だが、向かい風に向かっていけない。どんどん廃れてきている。インドネシアでもラマレラで使われているくらいだし、ラマレラでは帆は廃れ、エンジンに変わりつつある。

快適で安全な航海をするためには三角帆を使った方がいい。しかしリドゥワンはパクールというカヌーは四角帆で走っていたので、カヌーは古い形にして、帆だけヨーロッパスタイルの三角帆にするのはおかしいと言う。

私たちのカヌー建造の基本的コンセプトである「自然から素材を自分たちで捕って来て、自分たちで作る」ということであれば、特に四角帆にこだわる必要はない。しかし、それでは私たちのコンセプトにしたがっていればサンデックという現代のカヌーで航海をしてもいいかと言うと、抵抗を感じる。出来れば手作りでモノを作っていた時代の素材と技術で行きたい。歴史性はあまり考えないでいいと言っても、全く無視と言うわけにはいかない。

航海を終わった時の達成感も三角帆で航海するより四角帆で航海したほうが大きいだろう。それではマンダール人で四角帆の操作をしたことのある者はいるか。リドゥワンはいるという。そしてその者たちから操作を教えてもらうことにした。使い捨てられたサンデックを修理して、マストの位置を変えて、四角帆を張り、簡易パクールを造って訓練をしてみようということになった。

 帆にする布二枚分を頼んだ。もう一枚追加して、三枚の帆を作り、出発時に使うが、その他の二枚をボルネオとフィリピンに送っておく。そして日本で作った天然繊維の帆を台湾、あるいは西表島にデポしておくことにした。緊急時のために、化学繊維の帆も一枚用意しておくことにした。

今日はカヌーを海に運び出す。運び出す前に、皆が集まる前にカヌーを見に行った。4日前の朝には生きた大木だった。午前中に丸太だったものが、どう見てもカヌーにしか見えない形になっている。まだ厚みがあるので、どっしりとしている。周囲に剥がされた木片が積み重なっている。その上で朝日の当たったカヌーが横たわっている。夜に雨が降ったためにカヌーの中に水がたまっている。この上に板を一枚継ぎ足して、左右にアウトリガーをつけ、帆をたてる。その姿を想像している間に村人たちが集まって来た。ラタンのしなやかな、蔓性のロープを持って来た。これをカヌーの前端、後端にはめ込んだ短い横木に結わえつけて海まで運び出そうというのだ。

舟大工を含めて20人の村人たちと、クルー5名、それからビデオ撮影担当の武蔵野美術大学3年の山田明子と映像科の同僚三浦均氏が加わってラタンの蔓を引っ張り始めた。村人たちの数名は私たちのプレゼントしたTシャツを着ている。武蔵美の院生江藤孝治がデザインしたカヌーの下にMANDAR‐JAPANと書いてある。インドネシア人クルーのリドゥワンが「一体感をもって一緒に仕事をするため」にテイナンポンで造ったものだ。

10mの丸太も削りに削って3分の1以下の重さになっている。ぬかるみ、水溜り、藪、バナナ畑などが続いている。それらの間を縫って、一時間ほどでホームスティ先のイドゥワンさんの家の前のサッカー場に着いた。ここからいつも水浴びをしている川までは100mほどだ。バナナ畑の間を一気に走り抜けて川に運んだ。洗濯をしていた女性たちが突然のカヌーの出現にびっくりしていた。カヌーはしっかりと水に浮かんだ。毎日の雨で水量が増えているので、このまま3~4人で川を押したり漕いだりして2~3時間で行けるという。

その前にイドゥワンさんの家でリョクトウを煮込んで、ヤシ砂糖をいれたインドネシア風ぜんざいを食べた。食べる前に村人のなかにイスラム指導者イマームがいて、コーランの一節を読みながら「スラウェシから日本まで無事航海ができますように」と祈ってくれた。「アラーの神に祈りました。あなたたちとは宗教は違うかもしれませんが、私たちの流儀に従って、航海の安全を祈りました」と言う。

土地の3人の若者たちが新造カヌーの舟底部を運ぶことになった。リドゥワンと前田次郎が同行すると言うので、私たちは川沿いの道を歩いて行くことにした。スニーカーがはまってしまって抜けなくなるほどのぬかるみを歩いて行った。近くにカヌーを川に浮かべて流している者たちの声が聞こえた。しばらく行くと彼らと出会った。所々急流部や浅瀬があり、押したが、ほとんど流すだけで軽快に下りてきたという。

最後にカヌーに乗って下りた。ココヤシやバナナ、天然の木々、草が川に覆いかぶさるように茂っている中、河口の村人たちが洗濯をしたり、釣りをしていた。彼らにあいさつしながら下るとすぐに海が見えた。ここからランベまでおよそ300kmをエンジン付きの船で引っ張ってもらう予定だ。