2008/3/4
「新グレートジャーニー 南方ルート」
6〜7万年前、アフリカを出た人類は世界中に拡散していったが、多くの者 は東に向かった。同じ緯度のほうが天候の変化もなく移動しやすいからだ。東 に向かうとヒマラヤにぶつかるので、その南か北に回らなければならない。多 くの者は温暖で雨の降る南に向かった。ここからインドシナに向かうと氷河期 の海面低下で、インドネシアと陸続きになっていた幻の大陸スンダランドに至 る。ここはアジア人の原郷と言われ、住みやすいところだった。そのため人口 が増える。やがて温暖化のため、スンダランドは海に浸食されていった。その ために突き出された者たちは中国大陸を北上、一部は朝鮮半島から日本列島に 入って来た。これが南方ルートだ。
旅を始める前にインド、カンジス川の流域で行われるヒンズー教最大の巡礼 祭クンブメーラを見に行った。ヒマラヤの南麓に人々が集まってくる様を体感 したかったからだ。ふだん誰も住んでいないところに一千万人を越える人々が 集まる。そこで沐浴し、祈りを捧げる。しかし祭りの前、メディアではガンジ ス川の水質汚染と水不足のために、サドゥー(聖者)たちは沐浴を拒む声明を 発表した。行政は慌てて上流の汚染にかかわっている工場の操業を一時的に停 止させ、支流や運河から取水して、やっと巡礼祭が開かれた。渇水の原因は反 対運動を押し切って建設された上流の発電ダムだ。旅の最初にインドの大動脈 ガンジス川の抱える環境汚染、水質汚染と水の汚染にぶつかってしまった。私 たちは石油や天然ガスはなくても生きていけるが水なしでは生きていけない。 私はこの後も恵みの水で生かされる人々、汚染と渇水の進む河川を見ていくことになる。
旅はヒマラヤの南麓ネパールから始めた。何回も訪れた国だ。インド経由で ブータンに入り、アップダウンの激しい道を横断した。この仏教国は賢明な国 王の施策で、いたずらに経済発展を優先して国民総生産をあげることを目指す のではなく、国民すべてが幸福に暮らせるようにと、国民総幸福量という考え を政策に打ち出している。森林伐採も制限され、その他の資源開発もしない。 少なくとも輸出は厳禁されている。 インド、アッサム地方に出て、ミャンマーに向かおうとしたが、国境地帯で テロ事件が発生、通行許可が下りなかった。ルート変更を迫られて、ヒマラヤ 北麓、チベットのメコン川水源から再スタートした。今回は多くの国境越えが あり、初めて越えられない国境がいくつか出た。
ヒマラヤ、チベット高原にはアジアを流れる大河の水源が集まっている。イ ンダス川、黄河など四大文明を生んだ河川のほかに、長江(揚子江)、メコン 川、ガンジス川など錚錚たる大河川だ。そのなかでメコン川に興味を持った。 メコンの特徴は長江や黄河がほぼ東に流れていき、東シナ海に流れ出ているの に対して、途中で思い切り南へと進路を変え、南シナ海に流れ出ている。チベ ットに源を発してラオス、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムを旅する 国際河川だ。南に流れるために、中緯度から低緯度の熱帯、亜熱帯の土地を通 る。気候、景観共にとても変化の富んだ川だ。この川に興味を持った最大の理 由は、ヨルダン渓谷と並ぶ人類の揺籃の地、アジア人の原郷とも呼ばれるスン ダランドに向かっているからだ。メコンの恵みを受けて生活している人たちと 交流しながら、上流ではほぼ平行に近接して流れている長江にも立ち寄りなが らメコン水源からインドシナの下流、南シナ海まで辿ってみることにした。
まずはメコンの水源の氷河の一滴を飲み、その氷河を抱く未踏の山頂を登頂 した。その後、カヌーと自転車を併用して、メコンの恵みを受けて生活してい る人たちと交流しながら下流に向かった。川を下りながら私たちが水によって 生かされていることを実感する。
メコンの水源や上流では、チベットの人々の生活と川とのつながりはどうだ ろう。彼らが川の本流をそのまま使うということは、まずない。では、飲料水 はどうしているのか。彼らがもっぱら利用するのは水たまりだ。氷河が解けた 水はまわりの土を掘りながら激しく流れ、水は茶色く濁っている。その水をす くって濁りが沈澱するのを待っているより、水たまりの水のほうがきれい、と いうわけだ。なおかつこの川には魚もいない。急流だから交通機関として使う こともない。 それでは、チベットの人々は川をどう使うのか。間接的に利用する。雨水を うまく利用しているのだ。雨水を飲み水としてだけでなく、食料全部を雨に頼 っているのだ。雨が育てる草。その草をヤギ、ヒツジ、さらに重要なヤクが食 べ、それを人間が食べる。すべて間接的で、本流を流れる水ではなく、まわり に降った雨をうまく使って生きているのである。水源地帯で一人の少女に出会った。左足に大きな腫瘤があった。日本から医 者が来ていると聞いて、親戚の者に連れられて4時間かけて歩いて来たのだ。 成績優秀で学校の先生になりたかったが、その腫瘤のために勉学を断念した。 しかし旅の途中の私にはどうすることもできない。青海省の病院で治療できな いか探ってみると、大学病院の医師が引き受けてくれることになった。 専門医の診断で先天的に足の指が大きくなる巨指症であることが分かり、大 学病院で手術できることになった。一時は下肢に大きな静脈瘤があり、膝から 切断しなければいけないと言われていたが、部分切除だけで済み、3月に手術 成功、念願の左右同じ大きさの靴が履けるようになった。二か月のリハビリの 結果歩行もスムーズに行われるようになり、無事退院した。
メコンは青海省で生まれ、チベット自治区を通り、雲南省を流れる。標高2000 m近くになると、流域に段々畑が多くなる。チベットというと遊牧民というイ メージが強いが、標高の低い東チベットでは農耕民が多い。チベット自治区か ら雲南省にかけての横断山脈は地球上でも稀な深い皺を作っている。その皺の 中にサルウィン川、メコン、長江、黄河という世界の大河がひしめき合ってい る。急峻な山並が連なっているために、稜線から谷底までの標高差が2000〜4000 mの大渓谷を形成している。チベット人にかわってナシ族などの少数民族が姿 を現す。チベット仏教徒にかわってカトリック教徒も出てくる。古い道があち こちに見られる。昔、茶を雲南省からチベットに運び出した道だ。その代りに 軍馬として優れたチベットの馬を持ちかえった茶馬古道だ。
旧仏領インドシナのラオス、カンボジア、ベトナムでは川の流れが生活にな くてはならないものになっている。ダイナマイトや網を使って魚を捕ったり、 釣ったりしている。舟も使うようになり、生活の川になる。この川にも深刻な異変が起こっている。漁師たちが「最近、魚が取れなくな った」と嘆いていた。確かに刺し網を川から引き上げている光景に何度も出会 っているのだが、魚がかかっているのは見られなかった。その原因は上流での 森林伐採とダムの建設だ。水源の山の氷河も後退していたので、地球全体の温 暖化も影響しているかもしれない。南シナ海に注ぎ込む河口でも漁師たちが困 惑していた。かつては水深が6mあったのに、現在は2mになり、魚が捕れな くなった。漁師たちは組合を作り、河口の砂浜でハマグリの養殖を始めた。
ラオスでは正月の水かけ祭にぶつかった。この時期僧侶はあちこちの村に呼 ばれて忙しい。私の滞在したカナ村は僧侶を確保できず困惑していた。ちゃん と経を読まないと畑に最も必要な恵みの雨が降らないからだ。結局小坊主しか 確保できず、祈祷師と小坊主が失笑をかいながら、経を読み終えた。幸いなこ とに読み終えた途端に待望の大粒の雨が降り始めた。この時期中国南部、イン ドシナではそこらじゅうで水の掛け合いが始まる。元々は、両親や年長者に対 し、一年の非礼を詫びるため、水に流してくださいという意味だったが、今で は土地の人たちにとって無礼講の許される唯一の日々として、楽しみになって いる。
中国と北朝鮮との国境は通過が許されなかった。しかし平壌に飛べば、一部 だけ自転車で走ってもいいという許可が出た。だが、走れた距離はたった12km 、それも一番見たかった人々の暮らしぶりを見られないところだけだった。「 日本国政府が北朝鮮に対して敵視政策をとっているからだ」というのがその理 由だという。唯一出会えたのは朝鮮半島が南北に分断されたことで離ればなれ になってしまった家族だった。この家族の家を訪問し、韓国に住む家族に写真 とビデオレターを届けた。板門店で北朝鮮と韓国の国境も歩いて軍事境界線は越えられたが、自転車に 乗っての通過は許されなかった。北朝鮮と比べて圧倒的な経済格差のある繁栄 した韓国を国道沿いに南下して釜山まで行き、そこから朝鮮海峡をシーカヤッ クで漕ぎ始めた
ラオスではいくつかの民族の頬粘膜を採取した。その資料からミトコンドリ アDNAが解析できるのだ。ミトコンドリアDNA研究の第一人者国立科学博 物館の篠田謙一博士にその資料の解析をお願いした。その結果、ここに古くか ら住むモン・クメール語族に、日本人の中にもいるFタイプの人がいることが 分かった。アジア人の原郷といわれる豊かなスンダランドにやって来た人々の うち、一部は北上して日本までやって来たのだ。 住みよいところならば人口が増える。余所からも人が集まってくる。すると 人口圧で誰かが突き出されてしまう。それが人類が世界中に拡散していった原 動力になった。はじき出された者たちは、フロンティアであらん限りの知恵と 工夫で適応していこうとした。適応できず滅んでいった民族も多かったろう。 うまく生き残ったパイオニアたちは新しい文化を創造し、そこを「住めば都」 にしていった。その繰り返しで人類は世界中に適応・拡散していった。負の側 面を抱え込みながらも、世界中に拡散し、繁栄していった人類の礎を築いたの は、進取の気象に富んだ者たちではなく、はじき出されて、あらん限りの知恵 を振り絞った者たちではないだろうか。
2007/10/29
10月4日に韓国の釜山より対馬まで、渡部純一郎とともにシーカヤックで渡 りました。理想的には6月が日が長く台風さえ来ていなければ天候も安定して いていい季節なのですが、それ以前の計画で時間がとられ、10月になってしま いました。お彼岸も過ぎて日照時間も短くなっていて、なおかつ北東からの季 節風も吹き始める季節です。釜山から対馬は黒潮に逆らっての走行になります 。 対馬国際交流協会の人からはこの時期の成功率は2割と言われました。10月4日から10月14日までの11日間を朝鮮海峡横断のために用意して釜山に 向かいました。そのうち1日でも天気のいい日があればいいなと思っていまし た。台風15号が近づく中、3日に釜山に着き、出国の手続きを済ませました。 その日は北東の風が吹いていて、翌日の天候が心配でしたが、天気予報では海 は穏やかなようです。台風が来る前のラストチャンスと思いながら、翌日午前 5時に起きてみると、穏やかな天気でした。海に出てみると、幸運なことにほ ぼ無風快晴でした。伴走船に乗ったビデオ撮影の山田和也、佐々木秀和、大川 和之とともに、釜山を出ました。途中から韓国の巡視船が国境まで、邪魔にな らないほどの距離を置いてついてきました。2時間に5分ほど休むペースで漕 ぎ進めました。海上保安庁には17時には着くと約束してあり、税関、出入国管 理事務所も遅くまではやっていません。早いペースで進み、8時間余りで対馬 北部に到着しました。その夜から強い風が吹き始めました。 11月1日からは中国の雲南省、貴州省に向かいます。
2007/8/26
昨年の夏から始めたメコン川の水源から河口に向かう旅は7月の末に、カヌ ーで南シナ海に出て、終了しました。途中で寄り道をしていたので、時間がか かりました。一昨年始めた新グレートジャーニー「南ルート」はまだ中国と朝 鮮半島、朝鮮海峡を残しています。 メコン下流の仏領インドシナの旅はラオスに時間をかけ、2月〜4月のおよ そ2カ月間を費やしました。それでも見えたのはラオスの一部だけです。カン ボジアとベトナムは駆け足の旅でした。一番貧富の差が大きいのは立憲君主国 となったカンボジアですが、社会主義を選んだラオス、ベトナムも市場経済の 導入後、中国ほどではないにせよ、少しずつ貧富の差が広がっているようです 。中国人はアメリカ人を好きなようですが、ラオス人の多くはアメリカ人が嫌 いです。外国人観光客が増えていますが、ジーンズをはくと白眼視されるほど に反米です。ベトナム戦争時代に北から南への兵器、食料、物資の補給路ホー チミンルートがラオス内を通っていたからで、一般村民の住む村に600万トンの 爆弾を落としたといいます。その当時人口は600万人だったので、一人当たり1 トンの爆弾が落とされたことになります。一時は日本軍が旧都ルアンプラバー ンを占領したこともあるのですが、その面影は見えません。長い間フランスの 植民地だったので、その面影が建物やフランスパンなどの食事に見えます。中 国から陸路でラオスに入ったのですが、人々が穏やかで人懐っこいのが印象的 でした。こちらが会釈したり手を振ると必ず、笑顔が返ってきました。という より自転車を走らせていると、子供たちが大声で声をかけてきます。とはいえ 社会主義の国なので、勝手に民家に寝泊まりできません。その点カンボジアは 自由に行動できます。ラオスやカンボジアでは「ベトナム人はがつがつしてい て、攻撃的だ」というイメージで語られていたのですが、政治家や実業界の主 流はいざ知らず、ほとんどの市民、村民は素朴で、やさしい人たちでした。地 方の役人もこちらが普通に行動していれば、腰が低く、親切でした。1975年に アメリカに勝利してから、アメリカに協力した多くのベトナム人がアメリカは じめ海外に流れて行きましたが、残った人たちもいます。彼らは収容所で再教 育を受けた後、車夫などをしていますが、好きな職業やポストにつくことはで きません。話を聞いてみたかったのですが、今回は正式の取材許可をとって入 国したので、自由には取材できませんでした。機会があれば許可なしでベトナ ムを歩いてみようと思っています。
2007/1/23
2007年に入って中国の雲南省をメコン川沿いに自転車で移動していましたが 、1月中旬の一週間は中国の旅を中断してインドに行っていました。ガンジス川上流のアラバハードというところで、クンブメーラというヒンズー教の大きな巡礼祭があるからです。去年の12月下旬から始まり、今年の2月上旬まで続くようです。しかし最も重要な日は1月19日で、その日にガンジス川とその支 流のヤムナ川の合流点で沐浴すると今までの罪が許される。それ以上に重要な のはよりよき来世に行ける。そういわれています。その日も何時に沐浴したらいいかは星占いで決められました。公式発表では1500万人の巡礼者が集まったそうですが、数百万人は集まったと思います。敬虔な巡礼でもありますが、巡 礼者たちは結構楽しそうで、物見遊山的なところも多分にあり、いままで見てきたカトリックやチベット仏教の巡礼祭りと似ているところがたくさんありました。
メッカ巡礼を取材した写真家の野町和嘉さんと一緒になったのですが、彼もこの祭りは世界最大の巡礼祭ではないかと言っていました。但し若者や都市からの参加者は比較的少ないなという印象を受けました。敬虔なヒンズー教徒にとっては一生に一度は参加したいと思っている巡礼祭です。
この祭りの主役はサドゥーといわれる修行僧です。私は俗世間から逃れ、私利私欲を捨てた行者というイメージを持っていたのですが、意外と普通のおじ さんたちという印象を受けました。家を捨て、物欲は少ないのですが、注目を集めたい、尊敬されたいという欲望は人一倍強いようです。位の高いサドゥー は大きなスポンサーを持たなければならず、そのスポンサー探しにもエネルギ ーが必要に思えました。しかし私のイメージどおりのサドゥーも、私とは接触できないところにいるのだと思います。ヒンズー教についてはまだ無知なので、少し勉強してみようかなと思いました。IT大国、医療大国といわれますが、 まだまだ変わらないインドはあちこちに残っているようです
2007/1/11
2006年の12月はディレクターの山田和也くん、チベット研究者の貞兼綾子さ んと一緒に夏に行った青海省、メコン川の水源地帯の遊牧民社会で医者をして いました。標高4700mの厳冬期のチベット人社会での医療活動は初めてです。
夏に出会った14歳の少女が気になったので、青海省の首都西寧の病院に連れ てきて、治療をするためです。左足が巨大に腫れ、歩行困難、疼痛のため、二 年生まで通った小学校はやめ、家で暮らしていました。この辺境は中国語もほ とんど通じず、西洋医が来るのは初めてだというので、私の到来を待っていま した。痛い足を引きずって兄と妹に連れ添われ、「診察してください」と言っ てきました。
2歳の時から大きくなったようです。ということは先天的な奇形ではなく、 骨腫瘍、その中でもまれで悪性度の高いユーイング腫瘍を疑いました。痛みの ために夜も眠れないことがあるといいます。病歴、症状を語りながら、うっす らと涙を浮かべていました。学校では成績がよかったようです。夢は学校の先 生になることだといいます。しかしその時、私には何も出来ませんでした。メ コン川の水源の山に登り、カヌーで下る計画もあり、何も出来ずに別れました 。しかし帰国後、毎日痛みで苦しんでいる彼女のことが気になり、山田和也と 相談して彼女を西寧の病院で治療してもらおうということになりました。
ちょうど11月に高所医学会に青海大学副学長で高所医学を研究している格先 生が発表のためやってきていました。増山茂氏に格先生を紹介してもらいまし た。格先生は信州大学の医学部出身で日本通です。
少女のところに行く前に西寧で格先生と会いました。彼が病院長、骨科(日 本の整形外科、ちなみに歯科は牙科といいます)に連絡してくれ、治療体制を 作ってくれました。なおかつ病院長が国の民生局(日本の厚労省)と掛け合っ てくれて、明天計画(トゥモーロー・プラン)で治療費、入院費、付き添いの 母親の食宿代が出ることになりました。なおかつ彼女の足は悪性腫瘍ではなく 、巨指症、先天的な奇形と言うことがわかり、手術で直せるという見通しが立 ちました。放牧地で初めて出会ったとき、彼女はチュンツォーと呼ばれていま した。本名だと思っていたのですが、チュンとは水ぶくれという意味で、巨大 足のためのあだ名でした。本名はペーマツォー(蓮華の咲く湖)でした。学校 をやめたのも皆から虐められたというのが一番大きな原因のようです。放牧地 を発つ前、「最近で一番いいことってどんなこと?」と尋ねたら、「これから西 寧の病院に行って治療を受けられることです」と言っていました。西寧に着い たときも彼女にとってはじめての大都会と放牧地とどちらがいいと尋ねると、 西寧といいます。理由を聞くと、「私を治してくれる病院があるから」と応え ました。
X線写真を見せてもらいましたが、骨が肥大した皮下組織、脂肪組織にまで 延びて、骨も肥大していてかなり難しい手術になりそうでした。治療の目標は スムーズに歩けるようになり、左右の足の大きさが同じになることですが、時 間をかければ完治するような気がします。後は復学して彼女の夢がかなえられ るかは彼女の努力次第です
2006/11/27
3週間中国に行っていました。雲南省のチベット自治区との省境に梅里雪山 という雲南省の最高峰があります。カーリンポチェ(カイラス)と並ぶチベッ ト人の聖地です。もともとは人が登ってはいけない山でしたが、京都大学学士 登山隊が登頂を試み、大遭難という結果に終わりました。それ以降は登山禁止 になっています。そこには巡礼者が集まりますが、私も巡礼して来ました。そ の近くを移動したのですが、100年前にフランス人によって建てられた立派な教 会があり、ミサに行ってきました。 移動距離は300キロという短いものでしたが、充実した旅でした。
2006/10/24
7月15日から9月7日までチベットに行っていました。青海省のメコン川水源 の山に登り、水源の川をカヌーで下り、東チベット高原を自転車で走り、雲南 省の省境まで行きました。 今日から3週間、雲南省をメコン川沿いに移動する予定です。新グレートジャ ーニー「南ルート」をすこしずつ進めています。
2006/6/1
インド東北部のアッサムは分離独立派の動きがあるので外国人の移動を制限し ています。国立公園や車での移動は許可が下りるのですが、自転車となると別 のようです。ミャンマーもインド国境は皆グレーゾーン、つまり特別な許可な くして外国人は入れません。しかし両国ともじっくり時間をかけて許可に取り に臨めば通れるようです。しかし時間はたっぷりかかるようなので、そのルー ト、つまりヒマラヤ山脈の南麓を通ってインドシナに向かうルートは後回しに することにしました。 7月に次の旅に出ます。新ルートはヒマラヤ山脈の北麓を通るルートです。ゴ ルムドの近くから長江の水源地帯を歩いてメコン川の水源を目指します。水源 の山に登頂した後、氷河の上を歩いて反対側に下りると、その氷河が解けて出 来るメコン川の最初の一滴が見れます。そこからメコン川沿いにキャラバンを 続けます。この間は歩きです。道路にぶつかった所からカヌー、自転車でメコ ン川およびその沿岸沿いに下ってカンボジア、ベトナムに向かいます。今年夏 は2カ月間行動する予定ですが、メコン川水源地帯の探索で終わりそうです。
2006/5/31
久しぶりに近況を書きます。春は予定が次々と崩れていきました。予定では2月24 日にインドのアッサムに向かい、ミャンマーに行く予定でしたが、アッサム〜 ミャンマー双方とも国境の通過許可がおりませんでした。その後昨年亡くなっ た大恩人の「偲ぶ会」が横浜であったので、それに出席してから3月11日にミャ ンマーに向かいました。国際的にめちゃくちゃ評判の悪い軍事政権下、人々は 信じられないくらいいい人でした。敬虔な仏教徒が多く、その信仰のあつさが 原因ではないかと思いました。 ミャンマー中央部、第二の都市マンダレーから中国との国境を越えて、雲南省 の州都昆明まで行くつもりでしたが、ここも国境越えの許可がおりませんでし た。今回はテストランのようなものでした。しばらくミャンマー国内を歩いた 後、インドのガンジス河畔の聖地バラナシ(ベナレス)に行き、ガンジスの流れ 、巡礼者たち、火葬を眺めていました。
2006/2/7
2月下旬から4月中旬まで「新グレートジャーニー、日本人の辿った 道」の南ルートを歩きます。秋にカトマンズを出発し、インドの西ベンガル、 ブータンを経由してインドのアッサムに入りました。今回はその続きで、アッ サムからミャンマーに入り、イラワジ川を現地のエンジンなしの舟で下る予定 です。アッサムは分離独立派の動きが気になります。ミャンマーも最近首都を 移転し、しばらく混乱が続くかもしれないという情報が入っています。
2006/1/30
久しぶりの近況です。先週毎日新聞社から『グレートジャーニー全記録T移動編、我々は何処から来たのか』『グレートジャーニー全記録U寄道編、我々は何処に行くのか』の大部の本を出しました。この本に取り組んでいたこともあっ て、近況報告もおろそかになってしまいました。 10月下旬から11月20日まで 「新グレートジャーニー、南ルート」第一ステージの旅に出ていました。以前グレートジャーニー・ジャパンという言葉を使っていたのですが、ほとんどの人が言葉の響きから「関野は今度は日本国内を歩くんだ」と思ったようなので、初期日本人のやって来た道を辿る旅に関しては「新グレートジャーニー、日本人の来た道」としました。ただし国内を歩き、足元を見つめるグレートジャーニー・ジャパンも引き続き続ける予定です。カトマンズを出発して、自転 車で南部の低地を東に向かい、インドの西ベンガルに出ました。11月にブータ ンに入ると山岳地帯に入ります。起伏の激しい、蛇行の多い道で、細くて荒れていますが基本的に舗装道路だったので軽快にアップダウンを繰り返しました。ブータン内の上りを合計しただけで1万メートルを越えていました。と言うことは褒美として1万メートルの下りもあったわけです。最後にインドのアッ サムに抜けました。ブータンは魅力的な国でした。経済成長を指標にしたGDP( 国民総生産)よりもGNH(国民総幸福量)を。他の開発途上国の辿った道(開発―― 環境と伝統文化の破壊――貧困)を吟味、参考にしながら、新しい国の進むべき道を模索していました。今回初めてインドを掠りました。カルカッタにも寄 ったのですが、とても印象的でした。ブータンが貧しいが優等生の国だとしたら、今回掠めただけで、インドは喧騒と混乱の大国と言うイメージでした。初 めての外国がペルーではなく、インドだったらインドばかり通っていたかもし れません。とても疲れそうですが惹かれる国でした。
2005/10/23
新グレートジャーニー、日本人の来た道、南方編今月の24日にはネパールのカトマンズにいます。25日にはカトマンズを出発、東部のインド国境を目指しておよそ600キロを自転車で走ります。その後も自転車でインドからブータンに入り、ブータンを西から東に走り縦断して、インドのアッサムに抜けます。亜熱帯の低地あり、4000メートル近い高山帯ありの変化に飛んだコースです。東ブータンは照葉樹林文化の南の端です。しばらく東ブータンに滞在して、一ヵ月後には帰国します。
来年から本格的に南方ルートを移動、寄り道を積み重ねながら、アッサム、ミャンマー、インドシナ経由で中国雲南省、海沿いに中国を北上し、北朝鮮、韓国を経て、朝鮮海峡をカヤックで渡り九州に着く予定です。ほぼ2年がかりの旅になる予定です。
2005/9/15
新しいグレートジャーニー(日本人がやってきた道を辿る旅)北方ルートの
最終ステージを終えて、9月26日に東京に戻りました。
7月9日にハバロフスク経由でサハリンに入り、冬に間宮海峡を徒歩横・
縦断した後の中部、南部をアレクセイ・コノネンコと自転車で縦断しました。 最後の65キロは徒歩で最南端クリリオン岬に到達し、8月11日に宗谷海峡を
渡部純一郎とシーカヤックで渡りました。稚内まで直線でおよそ60キロを
強い潮の流れと向かい風に悩まされながら13時間漕ぎ続けて北海道に上陸しました。 サハリン縦断中、ボストーチヌイ自然保護区、チェイニー島などに寄ったり、 北緯50度以南の旧カラフトでは在留の朝鮮人、日本人の人たちに話を聞きました。 宗谷海峡を渡った後もとんぼ帰りでサハリンに戻り、やり残しを片付けて帰国しまし た。最後に礼文島の船泊遺跡に行きました。
私のミトコンドリアDNAを調べたところ、そこの縄文人のミトコンドリアDNAとの
共通点が多かったからです。船泊遺跡の発掘品を調べてみると、そのころ既に
九州方面や、大陸、サハリンとも交易をしていたようです。
2005/7/8
今日からグレートジャーニー・ジャパンの最終ステージに向かいます。
最初はサハリン北部の天然ガス、石油開発地域、ニブヒ人の村に行きます。
その後中部の自然保護区に行った後、自転車でサハリンを縦断し、
8月中旬に宗谷海峡を横断して稚内に向かう予定です。
2005/03/11
予定より早く2月にロシアより戻りました。ハバロフスクに着くとすぐに吹 雪が始まりました。身動きできなかったのですが、少しずつ移動して行きました。極東シ ベリアでの停滞はいつものことで慣れてはいるのですが、「またか」とため息も出ます。 ようやく最初の目的地、アムール川下流域のカルチョンという村に着きました。昨夏に滞 在したことのある村です。冬の罠を使っての毛皮猟を見るためでした。1週間滞在した後 、ナザレフに向かいました。夏に自転車で到達した間宮海峡に面した町です。ここでサハ リン取材に来ていた作家の熊谷達也さんや友人の土方正志、奥野安彦、山川徹さんと合流 しました。熊谷さんは大正時代のマタギを描いた『邂逅の森』で直木賞・山本周五郎賞を 昨年受賞したのですが、前作の『相剋の森』に続きマタギ三部作の作品をサハリンを舞台 に書く予定があり、その取材の途中で応援に来てくれました。 ナザレフの対岸ポギビま でが間宮海峡の最短距離(7キロ)です。そこを渡る予定でした。沿岸部はしっかりと凍 っているのですが、海峡の中央が凍っていず、蒸気がもくもくと立ちあがっていました。 アムール川に近い北部はしっかり凍っていました。1月27日に北側に弧を描くようなルー トで、およそ15キロを、重量80キロのそりを引っ張って1日で横断しました。無風快晴の とても気持ちいい天気でした。 その後、ポギビから凍結した間宮海峡を徒歩で南下しま した。目標はアレクサンドロフ・サハリンスキーというかつてのサハリンの州都です。ポ ギビからおよそ170キロあります。天気がいいと夜は冷えます。ポギビ滞在中、零下41度C まで下がった日もありました。南下の初日の午後から天候が悪化し始め、およそ20キロ南 下したところで1週間の停滞を余儀なくされました。しかしそこで世話になった夫婦が魅 力的で、キタキツネを罠で捕らえ、なめして帽子を作り上げるまでの工程を見ることがで き、天然ガスのパイプライン敷設で脅かされている彼らの暮らしや周囲の環境について話 を聞いて、飽きることはありませんでした。 その後南下を続けポギビからおよそ100キロ 行ったところで立ち往生してしまいました。沿岸部の氷が歩ける状態ではありませんでし た。氷が薄く、動いている上、ところどころがポッカリと空いて青い海水が見えます。私 たちが停滞している時の吹雪の時に強い東〜北東の風が吹いたために氷が沖合いに流され てしまったのです。3年に1度はそういうことが起きるとのことでした。 冬季の間宮海 峡の南下はここまでで断念しました。夏にここから陸路を南下することにして、ひとまず 引き上げることにしました。
2005/1/9
明日、極東シベリアに向かいます。夏に出会ったアムール川流域の漁労・狩猟 民の冬の狩猟を見せてもらった後、1月下旬には凍結した間宮海峡を渡ります。最短距離 を渡った後、南に向かって海氷上を徒歩で縦断します。2月中旬にはアレクサンドロフス ク・サハリンスキーという町に到着する予定です。 今回はパタゴニア南部氷床を渡った ときと同じスタイルで、やや大型のそりに装備・食料を載せて曳くつもりです。強い北風 が吹くそうですが、寒さをのぞいてはパタゴニアより楽だと思います。 関野吉晴
2004/12/15
シベリア便り
10-11月のおよそ1カ月間、シベリアのサハに行っていました。サハ共和国の首都 ヤクーツクの北、北緯70度近い北極圏です。ベルホヤンスク山脈と言う、人が住んで いるところとしては世界で一番寒い地域です。今年は例年より暖かいといっていまし たが、それでも着いた時は既に氷点下35度でした。 ここの先住民はトナカイを巧みに操るトナカイとヤクート馬の飼育民です。以前も トナカイぞりに乗って旅したことはあるのですが、今回は野生羊の狩猟にトナカイぞ りと騎乗トナカイを使って巻き狩りをしました。改めて極北地方でのトナカイの重要 性を思い知らされました。トナカイぞりはスノーモービルの上がれない、岩のゴツゴ ツした急斜面をガンガン上って行きます。 ソ連時代は郵便配達にもトナカイを使ったそうですが、人類が初めて極北に進出し た太古の時代も、シベリアに定着してからも、食用、運搬用として活用されるトナカ イがいなかったら、極北の歴史も大幅に変わっていたように思いました。人類拡散の 最も大きな障壁だった極北に進出できなかったかもしれません。 関野吉晴
2004/10/14
今月22日よりシベリアのサハ共和国北部、北極圏の狩猟民を訪れます。 人間の住んでいるところとしては最も寒いところで、11月には氷点下50度以下になります。こ の時期エベン族のハンターはシベリアン・ビッグホーン(野生の羊)や野生のトナカイを 巻き狩りと言う集団猟で狩りをします。この地方はオーロラが美しいことでも有名です。 サハ共和国の首都ヤクーツクから飛行機で北に行き、そこから車でさらに北のクストゥ ール村へ、さらにトナカイゾリで北緯70度の狩り小屋に行く予定です。その小屋を拠点と して周囲の森で狩りをします。久しぶりのトナカイゾリの旅も楽しみにしています。 関野吉晴
2004/09/09
9月5日に予定通り極東シベリアから戻りました。
7月上旬、モンゴルに向かい、プージェの49日にお参りしました。彼女は今年で12歳、5年前に出会ったとても印象的な少女でした。国道での飛び出しによる交通事故でした。霊前に最近の写真が置いてありましたが、聡明な凛とした顔をしていました。5年前、彼女の母親の49日にも参加させてもらいましたが、悲しい旅の始まりでした。
その後、ブリャートの村を訪れ、しばらく滞在しました。
その後、列車でロシアに入りました。ロシアでは極東シベリアをおよそ2100キロ、ほぼアムール川沿いに自転車で移動しました。久しぶりの自転車旅で、最初は道も悪く、四苦八苦でしたが、中盤からは好調で、8月中旬、間宮海峡に到達、対岸にサハリンを見ました。間宮海峡の水は塩気が薄く、濁っていました。アムール川の水が流れ込んでいるからですが、そのおかげで厳冬期に凍ります。来年1〜2月に凍った海を徒歩横断し、サハリン西海岸を南下する予定です。
今回カヤックでアムール川下流を下り、漁労・狩猟を中心にして暮らしているウリチの村に滞在しました。
次の予定は10〜11月にシベリア・サハ共和国の北極圏で、シベリアビッグホーンや野生トナカイを日本のマタギのように巻狩りで行っているエベンの村に行く予定です。
ハバロフスクから青森に飛行機で戻ってくる時、青い穏やかな宗谷海峡が見えました。空から見る限りはとても近いという印象を受けました。来年の夏、ここをシーカヤックで渡る予定です。それまでしばらくシベリア通いが続きます。
2004/07/01
新しい旅(グレートジャーニー・ジャパン+海のグレートジャーニー)
ここ33年間、半分以上の期間を海外の、電気も上下水もないところで、土地の人に泊めてもらい、できる限り同じものを食べて暮らしてきました。しかし自分の足元、あるいは日本についてあまりにも無知である事を痛感しました。学生時代に国内の山を登り、川を下りましたが、流域や山麓の人々と交流することありませんでした。
グレートジャーニー終了後は日本を知ろうと足元を見て歩いています。二風谷のアイヌ、山形の鷹匠、新潟のマタギ、東京西部の農林業に従事している人たちと交流しています。その中で最も力を入れているのは私の地元、東京下町での職人達との付き合いです。
私の生まれた下町に全国のブタ革なめしの8割をしている地域があります。そこで体験労働をしています。アンデスやアマゾンでも「泊めてください。食べさせてください。何でもしますから」と頼み込んで居候させてもらいました。仲良くなってから話を聞き、写真を撮ったのです。日本でも同じ流儀ですることにしました。
木下川のなめし皮工場は屠場から運んできた毛と脂のついた皮を、様々な工程を経て、伸縮性のある、色つやをつけた革にする工場です。生の皮は、乾くとするめのように硬くなります。逆に濡れると生皮に戻って腐りやすくなるのです。熱にも弱いままです。原皮のままでは利用価値はありません。しかし、皮を様々な薬品を溶かした液に漬けてドラムに入れて回し、乾かし、引っ張ったり、揉んだりして、やわらかくて腐り難く、熱にも水にも強い革にします。およそ2〜3週間をかけた様々な工程を経て進められます。
今は不景気で仕事が減っています。かつて中国、台湾、韓国などに日本人技術者が指導に行きました。それらの国が技術を習得してしまうと、そこで加工された革製品が格段の安価で輸入されてきます。このような産業の空洞化、外国人労働者、職人の高齢化、差別など様々な問題を抱えています。日本の一端が凝縮して見えてきました。今後も油脂工場、屠場、養豚場などで働くつもりです。さらに日本がクリアに見えてくると思います。
足元から日本を見ると共に、7月上旬から日本人のやって来た道を辿る旅に出ます。考古学、自然人類学、遺伝学などの最近の成果から3つの主要ルートが考えられます。1.シベリアからサハリン経由で北海道へ。2.ヒマラヤの南にルートをとった者たちはインドシナ、インドネシア、そしてオセアニアに拡散しました。この旅路が「海のグレートジャーニー」にあたります。その一部が黒潮に乗って日本にやって来ました。3.そして中国大陸からダイレクトに又は朝鮮半島を経由してやって来たルート。日本は人も文化もけっして単一でありません。実に多様性に富んでいます。様々な民族が混じりあい、いくつもの文化を作りだしました。
今回も自分の腕力と脚力にこだわり、寄り道にたっぷりと時間をかけて、6年ほどかけて歩くつもりです。いままで縁の薄かった東アジア、東南アジアを歩いて、見ることが出きそうです。そして少しでも日本人、また自分がクリアに見えればいいなと思っています。
最初は北方ルート、シベリアを移動し、夏の間に間宮海峡に達する予定です。海峡が結氷するまでは狩猟民たちを訪ね歩き、結氷したら徒歩で間宮海峡を横断するつもりです。宗谷海峡を渡って、北海道上陸は来年の夏になるでしょうか。
2004/05/29
3月末、ネパールから帰りました。北ドルポのナムド村での診療活動はおよそ2週間、それなりの成果が上がりました。当地で行われているチベット医学、チベット文化を壊すことなく、彼らにとってよりよい医療を展開していくにはどうしたらいいか。村の若いチベット医者と遊牧民用のテントでにわか診療所を開き毎日村人たちを診てきました。いつも30−40人、周辺の村からもうわさを聞いて来たので、多いときは70人を越える患者がやってきました。なるべく強い薬は使わず、私が帰った後も継続できるような診療活動をしてきました。今、村ではチベット医がチベット医学を中心に、私が持ち込んだ西洋医療、代替医療を取り入れて診療をしています。定期的に報告をしてもらい、その都度今後どうしていくか検討していくつもりです。
4月は主にマタギのクマ狩りに参加し、鷹匠を訪ね、最上川を下りました。これらはグレートジャーニー・ジャパンの一環ですが、7月上旬からは日本人のやって来た道、北方ルートを歩き始める予定です。
2004/03/03
3月5日よりおよそ1カ月間、ネパールに行きます。以前4カ月お世話になった西北ネパールの中国国境に近い北ドルポ地方で医療支援をする予定です。当地では灌漑、教育、医療など様々な問題を抱えていて、問題の多くは自分たちで解決するが、医療の支援をしてくれないかと、その時に村人たちから頼まれました。アムチ(チベット医)から彼らの医学を学びながら、私のできる範囲で、出過ぎないように支援していきたいと思っています。この活動は執筆や講演等で得た資金を元に行いますが、私の所属するシェア(国際保健協力市民の会)と大谷映芳氏、神尾重則氏のドルポ基金のアドバイス、協力を得ました。またチベット研究者の貞兼綾子さんが通訳として、同行してくれることになっています。