2010年度5~6月航海記 2010/6/26

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 風がどう変わるのか、過去のデータだけでは予想がつかないことを思い知らされた。天候や自然現象は私たちに恵みを与えてくれるが、気まぐれで、脅威ももたらす。その動きをじっと観察し、その動きに合わせて私たちも行動するしかない。

 5月中旬に日本を発ち、フィリピンのパラワン諸島の最北端コロンに向かった。昨年の4月にインドネシアのスラウェシ島を出て、縄文号とパクール号に乗り、4カ月の航海の後到達した所だ。

 およそ9カ月間、マキニットという小さな漁村の浜に陸揚げして、簡単な小屋を作り、保管していた。

 既に4月の下旬にインドネシア人クルー6人と、日本人の若いクルー前田次郎と佐藤洋平が先乗りして、点検、修理していた。

 私と渡部純一郎、撮影班の武蔵美の映像科卒業生水本博之、百野健介は5月14日にフィリピンに入った。現地の船大工にも協力してもらって、カヌーの修復は既に終わっていたので、17~18日には出航する予定だった。ところが私がコロンに着いて以来、東風が吹き続けていた。

 今回は最初に難関が待っていた。パラワン諸島とミンドロ島の間にあるミンドロ海峡80キロを渡らなければならない。最短距離はベーリング海峡と同じ距離だ。今まではセレベス海、スールー海という、島々に囲まれた比較的静かな海を走って来たが、これからは、南シナ海に放り出される。うねりも波も大きくなるはずだ。ミンドロ島まで真東に走らなければならないが、真正面から風を受けることになる。私たちのカヌーは基本的に風に逆らって走れないので、出航できずにいた。

 そもそも5月中旬に出航したのは、フィリピン、台湾、沖縄の風の動きのデータを読んで、決めた。

 この地域は共通した風の動きをしていて、30年間のデータを見てみると、10月から4月までは北風が吹いているが、5月に風がやみ、やがて南風が吹き始める転換期になっている。その転換点が上旬なのか、中旬、下旬なのか、年によって違う。しかし下旬には南風が吹き始めると読んでいたのだが、甘かった。台湾や、同じフィリピンでは南風が吹いているのに、コロンでは東風を基本に風向きが揺れていて、南風は気まぐれに、たまに吹く程度だ。今までの航海で私たちを散々悩ませた北風になることもある。

 5月21日の午後から弱い南風が吹くようになり、23日早朝に出航することに決めた。ミンドロ海峡は南からの微風で、穏やかだった。最後は風が止み、漕がなければならなかったが、無事渡れた。しかしそれから南風はめったに吹かなかった。むしろ北寄りの、前方から吹く風が多く、四苦八苦しながら進んだ。一日60キロ以上進んだこともあったが、20キロほどしか進まなかった日が多く、6キロしか進まなかった日もあった。マニラ湾を通過したのが、6月10日で、予定よりかなり遅れた。1日およそ12~13時間航海していた。私が乗っていた縄文号に限って言えば、時間で言うと、帆走4割、漕ぎ4割、風待ち2割という割合だろうか。

 
フィリピンの今年の天気はいつもと違っていた。

モンスーン期になってもほとんど雨に出会わなかった。
南シナ海は一度も荒れることがなかった。
 これらの条件は私たちの航海には好条件だったのだが、
私たちが待ち望んでいた南風が中々吹いてくれなかった。それが遅れた最大の原因だ。
今回は全行程の中でも最大の難関バシー海峡およそ400キロを渡らなければならない。台風銀座と言われるように台風が頻繁に通る海峡だ。多くの海の専門家、研究者から6月中にバシー海峡を渡るようにアドバイスされていた。5,6月はまだ比較的台風は少ないが、7月になると、頻発するうえに大型化する。

台風がなくても南シナ海と太平洋がぶつかる所で、なおかつ黒潮が川の奔流の様に流れている。風もうねりも高波も高いという。

 ところがこのままのスピードでは6月中にルソン島の北端に着くかどうかも分からない状態だった。

 6月11日の夜、安全対策コーディネーターの白根全から電話があった。「コーストガードのガルシア司令官だけでなく、海軍の将校、フィリピン人の海の識者も7月に入ってから私たちのカヌーで、バシー海峡を渡るのは無謀だとの意見が大勢だ」と言う。

 白根全も「慎重に考えて、無理をしないでください。事故がおきれば死者が出る可能性が高い航海です。10人の命を預かっているのですから、今年は断念して、来年、万全の態勢で臨んでください。お願いします」と懇願に近いアドバイスを伝えてきた。

 翌日、日本人クルーの意見を聞いた。安全に対する嗅覚の最も優れた渡部純一郎は「もし続行するのだったら、私は遠慮しようかなと思っていました」といい、今年は中断したほうがいいという意見だが、若い前田次郎、佐藤洋平は続行したいという思いが強い。私も含めて、渡部純一郎を除いた9人のクルーは行く気満々で、心配したカヌーの状態もいいからだ。私も続行したかったが、10人の命を預かった立場としては、もっとも安全な時期に渡るべきとの判断で、中断を決定した。

 ルソン島北部の小さな村に竹とヤシの葉でしっかりとした小屋を作り、縄文号とパクール号を格納した。時々チェックに行くが、普段は村人たちが守ってくれる。竹の筏を使って海で集団漁をする漁師で、筏の作り方を教えてもらい、一緒に漁に出ることも楽しみにしている。

 6月27日からおよそ2週間、最難関バシー海峡の島々を巡る予定だ。どの島に寄れず、どの島に港があるのか、台風銀座と呼ばれる地域で、家や塀の厚さは1メートル近くもあると言う。風や波にどのように対処しているのか。来年の航海の安全に万全を尽くすために観てきたい。台風が来たら帰りはいつになるか分からない。しかし台風に出会うのもいいなとも思っている。

 ちなみに、バシー海峡は「魔の海峡」とも呼ばれているが、それは海が荒れ、険しい地形で、台風が頻繁に通るからではなく、第2次大戦中に米軍の魚雷によってたくさんの軍艦、輸送船が撃沈され数万の日本人が犠牲になったからだ。そのことも頭に入れて、しっかり検分してきたい。

 バシー海峡の島々はフィリピンでも最も治安が良く、英語を話せる人も多いという。文化的にも台湾に近く、台湾領内の島々との交易も盛んだと聞いた。その景観も台風が頻繁に通るために、風の影響でルソン島とはまるで違うと言う。久々の寄り道を楽しみにしている。

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