道具作り 2008/6/30

 4月にインドネシアから帰って2カ月以上経つ。その間来年4月から始まる黒潮カヌー航海プロジェクトの準備をしていた。

 インドネシアからフィリピン、台湾経由沖縄までの航海に使うカヌーは自分たちで作ることにした。それもカヌーを作るための道具作りから始めることにした。今回の遠征の基本的コンセプトが「自然の中からすべての素材をとって来て、自分で作る」ということにしたからだ。

 ここ2カ月間はインドネシアで作るカヌーの木を切って、削って、掘りぬく道具の素材を作っていた。斧、鉈、ノミ、チョウナなどの工具を作らなければならない。その前に素材の鋼鉄を作らなければならない。

 鋼鉄を自然の中からとって来て作るとなると、まず砂鉄か鉄鉱石を探し出さなければならない。幸いなことに日本にはタタラ製鉄と言う製鉄技術がある。宮崎駿の映画『もののけ姫』に出てくる、日本に古くからある製鉄技術だ。調べてみると全国各地、特に出雲を中心に全国でタタラ製鉄が実験的に行われていることが分かった。日本刀を作るには新日鉄や神戸製鋼の作った鋼鉄からでは作れない。

 タタラ製鉄から作った鉄のみが日本刀作りに利用されている。この技術を利用して道具を作ろうと早速、九十九里海岸で砂鉄を集め、岩手で炭を焼き、武蔵野美大でタタラ製鉄操業を行い、その成果である鉧(ケラ)をたたくために奈良の東吉野にやって来たのだ。

 3月中旬、インドネシアに行く前に武蔵美の教え子から連絡があった。卒業後横浜に新設された東京芸大の映像学科修士課程に進学した佐藤哲至君からだ。彼は武蔵美のワンゲルOBで、私の課外ゼミの熱心な学生で、私の研究室に出入りしていた。彼は今回の「海のグレートジャーニー」のことは既に知っていて、芸大の友人に話をしていた。その友人の一人河内晋平君がこのプロジェクトに興味を持ち、詳しい話を聞きたがっているという連絡があった。

 早速、国分寺で河内晋平君と会い、プロジェクトの詳しい説明をした。彼は強い関心を持ち、熱心に私の話を聞いていた。特にプロジェクトの撮影に関心があった。「タタラ製鉄をして鉄を作り、カヌー作りの道具も自分たちで作ることにしているんだよ」と言うと、「私の父は奈良で刀鍛冶をしていて、出雲のタタラ製鉄の村下の木原さんとも仲がいいんですよ」と言う。村下とはタタラ製鉄の技術的指導者のことで、木原さんは日本で唯一の村下だ。彼の指導でタタラ製鉄をしてみたいと思っていたので、まずは河内君のお父さんを紹介してもらうことになった。4月下旬、大阪で映画監督で作家の森達也らとの「メディアリテラシー」のシンポジウムに参加した後、東吉野の河内君の実家に行った。

 大阪の難波から東吉野に向かった。河内晋平君の父親、刀鍛冶の河内國平さんと会うためだ。クルーで一緒にインドネシアに行って来た、佐藤洋平、前田次郎の他に武蔵美の学生、卒業生3名が同行することになった。近鉄の最寄り駅まで1時間半かかる。そこからは車でしか行けない。バス便は一日に数本しかないので、タクシーで行った。タクシーの運転手はおよそ40分かかる辺鄙なところに住む河内さんを知っていて、難なく家に着くことができた。吉野杉やヒノキの美しい森に囲まれた閑静な所に家と工房があった。

 家に到着すると、奥さんが迎えてくれて、すぐに仕事場に案内してくれた。暗幕を張って、電気が消されていたので、薄暗い部屋の中に石炭の燃え盛るオレンジ色の炎だけが明りだった。その明りに照らされた國平さんの顔がオレンジ色に輝いていた。厳しい顔で、炎を見ながら手押しのフイゴを押していた。若い弟子が二人、炭を切っていた。コロンコロンコロンと槌で鉄の叩き台をたたくと、國平さんの前に重そうな槌を手にして、並んだ。國平さんが忙しくフイゴを押すと、炎が火花を散らしながら燃え盛った。二人の助手が槌を振り上げて、力強く振り下ろす。國平さんが叩く所を指示する。正確に打たないと國平さんの怒号が飛ぶ。この人間国宝級の刀匠國平さんとの出会いによって道具作りは飛躍的に進むことになった。